MOTIVATION NOTE
プランナー

日本の爺さんはアンドロイドの夢を見るか?【孫出現によるシニアのモチベーション】

【序】憧憬

小学生の頃爺さんに心底憧れていた。何故に自分は爺さんに生まれなかったのか?ランドセルを背負い歩く道すがら、軽く人生を悔いていた事もあった程だ。将来の夢という小学校生活にはありがちな課題では「格好よい爺さんになる」とタイトルだけ勇ましく書き殴り、隣の席の塚越君にドン引きされ慌てて消しゴムをかけたことは、今となってはカカオ80%含有のチョコレートの如く苦い思い出である。

物心ついたころから年寄りに囲まれ、ファンタグレープよりもほうじ茶、ショートケーキより道明寺という嗜好が身についた。明治生まれの頑固者たちは私の佐一郎という名を大層贔屓とし、「さいっつあん」「すけさん」(佐はすけとも読む)と先の大戦の盟友かのような扱いをした。三つ子の魂百までも…とはよく言ったものである。この様な環境下すくすくと思春期を迎えた私は、芭蕉の句同様に夢は枯野を駆廻り、冬の枯山水に身を委ね、談志の「芝浜」に涙するという立派な似非爺さんへと成長したのである。

その風貌たるや濃紺のジーンズに白のボタンダウン、絣の半纏を上っ張りとし、真冬でも素足に桐の高下駄をつっかけるという昭和のこじらせ文学青年風であり、ブックバンドで孫子とツァラトゥストラを固めに綴じ、肩越しに背負いながらママチャリを軽快に乗りこなすという、凡そ健全な高校生とは程遠い爺エッセンスをまとった突っ込みどころ満載な風体であった(わが母校は服装自由を謳うバンカラ校である)。

諸兄のご想像通り、当時の私は校内一の変わり者の烙印を押され、概ね女子は寄り付かず、定年間近の望月先生だけが心の拠り所であったことを初老に差し掛かった今でもハッキリと記憶している。あの時のわが身を例えるなら皐月の乾いたそれでいて心躍る風を受け、瑞々しい深緑の針の葉を自由に伸ばす松の木々の中、只々一本だけ晩秋の冷え冷えとした霞たなびく中に、また一枚と葉を落とす紅葉の夢を見る群れから外れた孤独な松だったに違いない…そんな心と体のアンバランスを抱えながら十七歳の私の青春は確実に流れ去っていった。

【破】誕生

それからおよそ三十年後、十七歳となった娘が男子を生んだ。突然のこの事件でどのようなやり取りや家族間の葛藤があったかはあえて割愛させていただくとして、ここで伝えるべき最も重要な事は、私が望む望まぬにかかわらず娘の出産という一日をもってして、法律上まことに正真正銘私は爺さんになったのである。その時私は四十六回目の春を迎えていた。

HGウェルズの時代から争点となる「タイムマシーン」の実現性や将来像はさておき、平均値換算で少なくとも干支一回り分から二十年の時間を「数奇な運命」という名のタイムマシーンですっ飛ばし、世間一般の常識より遥かに早く私は爺さんになった。あえて恥を晒す覚悟で正直に言う。事情を知った皆の「えっ~若いおじいちゃんですね!」という反応が私の中の「干からびていない生煮えのカラダ」と「爺さんという紛れもない立場」が合わさった何とも言えぬ空気感が私の自尊心をくすぐると同時に、まだ経緯を知らぬ者に対して、若くして爺さんの称号を手に入れた優越感を心中密かに味わっていたのである。

立場が人をつくる…驚くべきことに戸籍上とはいえ憧れの続柄を手に入れたことが、私の中の様々な事象に対して着実に変化をもたらした。視力、体力、生理現象、食欲、所有欲、思想、信条、口癖にいたるまでそれは解離した原子核のように内面から様々な方角に飛び散り、今までの形を留めようとしない。孫の誕生から十一年、今では五十七歳となった私はその外見とは全く別に、体の内側から細胞ひとつひとつをもってベテランの領域に達した爺さんへと生まれ変わろうとしているのである。

【急】未来

酔狂なモチベーションノート編集部より本稿の執筆依頼を承った。クリエイターでも、マーケッターでもない中途半端な私は一体何を話せばよいと云うのか?思案の末に、これまでお目汚しさせていただいた「特殊な爺さん経験」を書き記すこととした。約二十年の時間をタイムワープした私の視点で捉えた「爺さんの自画像」を披露させていただくこととする。

自分が戸籍上の爺さんへと急成長したことで急激に変化したことがひとつある。それは「欲望の枯渇」である。人間の「欲望」こそが人類の進歩への源泉であると固く信じてきた私にとって、いささかショッキングな出来事であった。私の欲望の枯渇とは、例えるなら霜降り米沢牛よりゴマ豆腐であり、大トロマグロよりタラの芽の天ぷらという高野山の修行僧のような佇まいをしている。そんな状態であるから正直お金を使わない。コロナ禍の今、お昼にはお粥づくりに熱中していると云う有様だ。

ただ一点「孫と一緒に」というフレーズには容赦がない。レゴ、スイッチ、PS4に4Kテレビ他あれやこれやと…自分でも生き急ぎすぎではないかと感じるほどに孫と共に「未来」を手にしたいという願望がふつふつと溢れ出るのである。目に入れてもいたくない。そんな最新鋭のコンタクトレンズでも敵わない「孫」という存在が私の「消費」を支えている。

最近こんな風に考えるようになった。孫という言い訳を通じて私は「未来」を夢見ているのではないか?実は日本の爺さんたちこそ未来に投資したいと考える、隠れた巨大資本なのではないかと?孫出現によってもたらされるシニアのモチベーションは、日本の未来を、テクノロジーの進化をも変えるパワーを秘めているのではないかと思うのである。

【縁】

最後に私のつたない駄文にお付き合いいただいた皆様へ 一つの経験談を!多くの爺さんと付き合う中で「幸福な爺さん」と出会うことがある。そして彼らには一つの共通項があるように思えてならない。

彼らは「円」よりも「縁」を貯めている

解釈はお任せしたい。ただ今の自分にはその理由がうっすらとわかる気がしている。

参考文献:アンドロイドは電気羊の夢を見るか?/フィリップ・K・ディック

PROFILE

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見たことないを創る。発想からモノ作り、コラボまで。いくつか特許出願してます。大英博物館に作品が収蔵されているのがプチ自慢。孫11歳と楽しく暮らしてます。